楠森堂ブログ

42代前の河北家の祖先、相撲の神様 “ 日田どん (大蔵永季) ” を祀る日田神社に参拝。

メディア掲載

平安時代に「日田どん」と呼ばれて慕われた怪力無双の男がいた。その名は大蔵永季(おおくらながすえ)。
その大蔵永季は、私から遡る事こと 42代前の河北家の祖先。

 

▶〚 53代 大蔵永季(日田どん)| 95代 河北幸高 〛

 

延久3年(1071)永季が16歳の時、京で行われた後三条天皇の 相撲の節会(天覧相撲) に召しだされ優勝。

以後30数年間で15回優勝し続け、日本一という相撲の記録を作り、現代でも永季は“相撲道の神”としてたたえられ、大分県日田市の日田神社に相撲の神様として祀られています。

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◆ 大蔵永季(1056-1104)
平安時代に京都でおこなわれた 相撲節会 に出たことが記録に残っており、その実在が明確になっている。
その最期も京都からの帰りに病を得て、領内に戻ってきたところで亡くなったとされている。
・ 1104年(平安後期)、京都での相撲節会より帰国途中、 大肥庄村薄にて死去。▸▸ 大分県 日田市大鶴地区に「大蔵永季」の墓 がある。
【 大肥庄 ( 荘園 )|おおひのしょう 】 現大分県日田市、小野(おの)・鶴河内(つるがわち)・大肥(おおひ)・夜明(よあけ) 一帯、筑後川支流の鶴河内川・大肥川流域に比定される太宰府天満宮 安楽寺領

 

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【大蔵永季と出雲の小冠者相撲の絵馬】
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【日田神社】
河北家では毎年1月19日、一族が うきは市に集い、祖先に感謝をし河北家が今後も連綿と続くことを祈る「祖先祭」を行っています。
今年は、

河北家の歴史を改めて知るために祖先祭を終えた後に祖先が祀られている大分県日田市の日田神社と永興寺(ようこうじ)を訪問。
一族で訪問するのは約40年ぶり。

私は初めて訪れました(今、40才ですから)。

 

貸し切りバスで現地に到着すると、地元の方やメディアなど沢山の方々が出迎えてくださり驚きました?!!
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相撲の神様を祀る「日田神社」‥

かつては、

日本相撲協会や歴代の横綱が、九州での本場所や巡業が行われる際に参拝に訪れていたそうです。

しかし近年、

参拝に訪れることも殆ど無くなり、交流も希薄となった影響からでしょうか?

 

日本出身力士が優勝から遠ざかって丸10年と長期低迷…

 

 

先日参拝に訪れた1月19日は、大相撲 “ 初場所 ” 中。

 

福岡・筑後柳川出身、我ら期待の郷土の星 “ 琴奨菊 ”が9連勝中!

 

琴奨菊関の優勝を願って相撲の神様に必勝祈願 (ー_ー)!!!
すると?!

必勝祈願のご利益効果か、

ナントナント優勝(・_・;)…

国内力士 10年ぶり久々の優勝 !!!

ナントナント !!!

 

角界の皆さん、

日田神社の参拝‥

おすすめ致します_(_^_)_

 

【大分合同新聞】

 

【西日本新聞】

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【動画】

✜ 慈眼山永興寺 ・ 日田市 ✜

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【 国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」(永興寺蔵) 】
延久3年 (1071) 永季が16歳のとき、後三条天皇の京の 相撲の節会 (せちえ) に召され初めて上洛するときに、自分の等身大の毘沙門天 (びしゃもんてん) を造立した像が現在も安置されています。

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〝国重文「兜跋毘沙門天立像」を寄進した人物は36代前の祖先〟

 

2014年 (平成26年)、

福岡市博物館で 『 九州仏 1300年の祈りとかたち 』展 が開催されました。

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大分県日田市・永興寺 (ようこうじ) に伝わる『兜跋毘沙門天立像【※10世紀 制作】』も展示されました。

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永興寺は、私達 河北家の祖先に当たる日田大蔵氏の菩提寺。

そして、

この毘沙門天を寄進した「大蔵永秀」は、私から遡ること 36代前 (平安時代) の河北家の祖先。

 

▶〚 59代 大蔵永秀 | 95代 河北幸高 〛

 

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❑  福岡市博物館 ❑ 『 九州仏 1300年の祈りとかたち 』展
▼「西日本新聞」掲載記事  (2014年/H.26) 
大分県日田市・永興寺 (ようこうじ) に伝わる『兜跋毘沙門天立像【※10世紀 制作】』
【  国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」| 永興寺蔵  】

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昭和の初め、 この仏像が解体修理された際、

曾祖父 河北俊義 もその永興寺を訪れました。

 

解体された毘沙門天立像の内側に墨筆で

『 文治三年 (1187) 五月二十八日 大蔵永秀 生年三十五 』

12世紀初期の私たち河北家祖先の一人が書き残した 銘文。

 

その文字の鮮やかさは、

まるで昨日書いたのではないかと思えるほど印象的だったそうです。

 

曾祖父 · 俊義も、新しい木札に “ 年月日と何代の孫 ” と墨書で署名し、

修理が終わったときに、

その立像の胎内に封じ込めたそうです。

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【  国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」| 永興寺蔵  】
延久3年(1071)「永季 (ながすえ)」が16歳のとき、 後三条天皇の京の相撲の節会(せちえ)に召され初めて上洛するときに、自分の等身大の毘沙門天(びしゃもんてん)を造立した像。

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❑【日田神社】

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相撲協会、立浪、藤島親方、横綱双葉山、武蔵山の名が見える。
日田神社(大分県日田市)には、角界、歴代の相撲取りが寄進した、石柱(玉垣)がたくさんあり、中津出身の名横綱「双葉山」も横綱になって、奉納の土俵入りを披露しました。

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日田神社の玉垣には大相撲九州場所優勝者の名が刻まれている。
「千代の富士」「小錦」「曙」「貴乃花」「若乃花」「武蔵丸」「貴ノ浪」‥
そして、苔むした玉垣には、双葉山、前田山、羽黒山、名寄山 ‥
オールドファンならよだれが出そうな名前ばかりが連なる。
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記念植樹(平成元年)。、二子山理事長。

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❑【日本民話「日田の鬼太夫」】

 

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◆  河北家の家紋『相撲取り紋』
“ 日田どん ” 永季が 相撲を取る姿を模した「相撲取り紋」。
私たち 河北家の家紋である。
「鬼洲浜紋(おにすはまもん)」とも呼ばれている。
大蔵氏の先祖が「鬼」の敬称を代々つけていることから 洲浜紋 に「角」を合わせた形を採用したと考えられている。
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【 日田市公式 動画チャンネル 】
✜ 日田天領まつり ✜⦅ 日田ランタン ⦆

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博多祇園山笠・飾り山笠【 平成23年 / 十七番山笠 ソラリア 】( ※ 高さ約 10m )
表標題 :「 怪力相撲日田殿 (かいりきすもうひたどん) 」
人形師 : 置鮎正弘

 

<内容説明>
今から九百年程昔、日田の地を治めていた大領、大蔵永興には鬼太夫永季という、とてつもない力持ちの息子がいた。

 

鬼太夫の怪力ぶりは京の都まで届き、日本 一の力自慢を競う天覧相撲大会に召し出される事となり、大原八幡宮で優勝祈願し都へと旅立った。

 

都へ向かう途中の筑前大宰府あたりを通りがかった時、川の ほとりで遊んでいた一人の童女が「あなたさまの相手となる出雲の小冠者は力の強いこどもを産みたいと願って毎日鉄粉を食べていたため、全身が鉄よりも固い と言われています。

 

しかし、
母親がつい一度だけ瓜を食べてしまったため、額に三寸程のやわらかい場所があり、そこを狙えば倒せるでしょう。」と告げると消 えてしまいました。

 

都に着き、天皇の御前で小冠者と相撲をする事になった鬼太夫は小冠者の引き締まった体やすばやさに翻弄されるが、童女の言葉を思い出 し、小冠者の額に右手で激しい一撃を食らわし、日本一となり日田へと戻っていった。

 

やがて鬼太夫は父の後をついで日田の大領となり善政を施し、領民から日田殿(ひたどん)と呼ばれ慕われた。

 

▶〚 53代 大蔵永季(日田どん)| 95代 河北幸高 〛

 

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【動画】大原八幡宮

 

 

【  大原八幡宮大分県日田市 
大原八幡宮 (おおはらはちまんぐう) は 1200年以上続く古社、大分県日田市田島に鎮座する由緒ある神社である。
日田市内最大の神社で、通称「大原神社」と呼ばれ親しまれている。
871年 (貞観13年)、当時日田郡司であった日田大蔵氏の始祖、大蔵永弘 (おおくらながひろ) によって元宮のある地に社殿が建立された。
 ❑ 日田大蔵氏の始祖「大蔵永弘」は、遡ること48代前の河北家の祖先である。

 

▶〚 47代 大蔵永弘 | 95代 河北幸高 〛

 

 

 

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私達、河北家の家紋は「鬼洲浜紋(おにすはまもん)」又「相撲取り紋」とも呼ばれ、力士が取り組みをしている姿を表しています。
この紋は平安時代、京の天覧相撲での永季の強さに大変感心された「後三条天皇」から賜ったものだそうです。
この大蔵家の洲浜紋(相撲取り紋)の家紋を、楠森堂の敷地内の色々な場所で見る事ができます。
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【 主屋・玄関 |「鬼瓦・鬼洲浜紋」「巴瓦・洲浜紋」】⇧

 

日田大蔵家 家紋[1]

【 裏門 |「洲浜紋」】⇧

 

家紋[2]

【 新座敷 |「鬼瓦・鬼洲浜紋」「巴瓦・洲浜紋」】⇧

 

【  楠森堂 敷地内・山北神社|「洲浜紋」】⇧

 

 

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 ✜  楠森堂 Blog  ✜
  神武天皇の兄「三毛入野命」の末裔と伝わる河北家
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kusumoridou.com/blog/三毛入野命の末裔/楠森河北家
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 ✜  楠森堂 Blog  ✜
  鶴田真由さんが綴る「note」| 花と朗読 制作記
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   kusumoridou.com/blog/花と朗読制作記/note
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私 (河北幸高) が

楠森河北家の「28代目」と呼ばれる所以。

 

浮羽町史 にも記載されてあるが、

 

河北家は、

初代・神武天皇の兄にあたる「三毛入野命 · ミケイリノノミコト」の子孫と伝わる。

 

領主・三毛入野命の裔「山北四郎永高」から数え、

私で「28代目」。

正平元年 (1346年/南北朝時代)、

征西将軍 懐良親王より命じられ 賀茂神社 (うきは市浮羽町山北) を創建した

”山北四郎永高” は、

私から遡ること「27代前」の祖先。

 

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▼ 『浮羽町史』

 

 

 


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[ ~YouTube~: 放送動画 ]

 

【◆前編◆】楠森 河北家「千二百年!先祖物語」⋄ドキュメンタリー番組⋄

/2016年 (平成28)

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【◇後編◇】楠森 河北家「千二百年!先祖物語」⋄ドキュメンタリー番組⋄

/2016年 (平成28)

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楠森河北家住宅の記録 │ Kusumori Kawakita Estate.

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2016  象鼻杯の記録  < 会場  ·「楠森堂」新座敷  >

MUJI  無印良品

【 ローカルニッポン | 福岡・うきは 】

「 在来茶と地域に生きる 」― 楠森堂・河北幸高さん ―

(コチラから記事をご覧いただけます)

  ▼  ▼

https://localnippon.muji.com/7049/

 

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