楠森堂ブログ
国重文「兜跋毘沙門天立像」を寄進した人物は36代前の祖先
昨日、西日本新聞で紹介されていた、
福岡市博物館で開催されている
『 九州仏 1300年の祈りとかたち 』展。
·
(11月30日まで福岡市早良区百道浜の福岡市博物館にて開催)
·
·
大分県日田市・永興寺 (ようこうじ) に伝わる『兜跋毘沙門天立像【※10世紀 制作】』も展示されました。
·
永興寺は私達 河北家の祖先に当たる日田大蔵氏の菩提寺。
そして、この毘沙門天を寄進した「大蔵永秀」は、私から遡ること 36代前 (平安時代) の河北家の祖先。
▶〚 59代 大蔵永秀 | 95代 河北幸高 〛
··
··
【 国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」(永興寺蔵) 】
延久3年 (1071) 永季が16歳のとき、後三条天皇の京の 相撲の節会 (せちえ) に召され初めて上洛するときに、自分の等身大の毘沙門天 (びしゃもんてん) を造立した像。
··
··
❑ 福岡市博物館 ❑ 『 九州仏 1300年の祈りとかたち 』展
▼「西日本新聞」掲載記事 (2014年/H.26) ▼
大分県日田市・永興寺 (ようこうじ) に伝わる『兜跋毘沙門天立像【※10世紀 制作】』
【 国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」| 永興寺蔵 】
··
··
昭和の初め、 この仏像が解体修理された際、
曾祖父 河北俊義 もその永興寺を訪れました。
解体された毘沙門天立像の内側に墨筆で
『 文治三年 (1187) 五月二十八日 大蔵永秀 生年三十五 』
12世紀初期の私たち河北家祖先の一人が書き残した 銘文。
その文字の鮮やかさは、
まるで昨日書いたのではないかと思えるほど印象的だったそうです。
曾祖父 · 俊義も、新しい木札に “ 年月日と何代の孫 ” と墨書で署名し、
修理が終わったときに、
その立像の胎内に封じ込めたそうです。
··
··
【 国指定重要文化財「兜跋毘沙門天立像」| 永興寺蔵 】
延久3年(1071)「永季 (ながすえ)」が16歳のとき、 後三条天皇の京の相撲の節会(せちえ)に召され初めて上洛するときに、自分の等身大の毘沙門天(びしゃもんてん)を造立した像。
——————————————————————————
【動画】
✜ 慈眼山永興寺 ・ 日田市 ✜
——————————————————————————
··
··
··
❑【日本民話「日田の鬼太夫」】
——————————————————————————
——————————————————————————
◆ 大蔵永季(1056-1104)
平安時代に京都でおこなわれた 相撲節会 に出たことが記録に残っており、その実在が明確になっている。
延久3年(1071)永季が16歳の時、京で行われた後三条天皇の 相撲の節会(天覧相撲) に召しだされ優勝。
以後30数年間で15回優勝し続け、日本一という相撲の記録を作り、現代でも永季は“相撲道の神”としてたたえられ、大分県日田市の日田神社に相撲の神様として祀られている。
・ 1104年(平安後期)、京都での相撲節会より帰国途中に病を得て、 領内 (大肥庄村薄) に戻ってきたところで亡くなったとされる。▸▸ 大分県 日田市大鶴地区に「大蔵永季」の墓 がある。
【 大肥庄 ( 荘園 )|おおひのしょう 】 現大分県日田市、小野(おの)・鶴河内(つるがわち)・大肥(おおひ)・夜明(よあけ) 一帯、筑後川支流の鶴河内川・大肥川流域に比定される太宰府天満宮 安楽寺領。
——————————————————————————
——————————————————————————
【 日田市公式 動画チャンネル 】
✜ 日田天領まつり ✜⦅ 日田ランタン ⦆
——————————————————————————
⇧ ⇧ ⇧
博多祇園山笠・飾り山笠【 平成23年 / 十七番山笠 ソラリア 】( ※ 高さ約 10m )
表標題 :「 怪力相撲日田殿 (かいりきすもうひたどん) 」
人形師 : 置鮎正弘
<内容説明>
今から九百年程昔、日田の地を治めていた大領、大蔵永興には鬼太夫永季という、とてつもない力持ちの息子がいた。
鬼太夫の怪力ぶりは京の都まで届き、日本 一の力自慢を競う天覧相撲大会に召し出される事となり、大原八幡宮で優勝祈願し都へと旅立った。
都へ向かう途中の筑前大宰府あたりを通りがかった時、川の ほとりで遊んでいた一人の童女が「あなたさまの相手となる出雲の小冠者は力の強いこどもを産みたいと願って毎日鉄粉を食べていたため、全身が鉄よりも固い と言われています。
しかし、
母親がつい一度だけ瓜を食べてしまったため、額に三寸程のやわらかい場所があり、そこを狙えば倒せるでしょう。」と告げると消 えてしまいました。
都に着き、天皇の御前で小冠者と相撲をする事になった鬼太夫は小冠者の引き締まった体やすばやさに翻弄されるが、童女の言葉を思い出 し、小冠者の額に右手で激しい一撃を食らわし、日本一となり日田へと戻っていった。
やがて鬼太夫は父の後をついで日田の大領となり善政を施し、領民から日田殿(ひたどん)と呼ばれ慕われた。
▶〚 53代 大蔵永季(日田どん)| 95代 河北幸高 〛
··
··
··
——————————————————————————
——————————————————————————
◆ 河北家の家紋『相撲取り紋』
“ 日田どん ” 永季が 相撲を取る姿を模した「相撲取り紋」。
私たち 河北家の家紋である。
「鬼洲浜紋(おにすはまもん)」とも呼ばれている。
大蔵氏の先祖が「鬼」の敬称を代々つけていることから 洲浜紋 に「角」を合わせた形を採用したと考えられている。
——————————————————————————
——————————————————————————
【動画】大原八幡宮
【 大原八幡宮 | 大分県日田市 】
大原八幡宮 (おおはらはちまんぐう) は 1200年以上続く古社、大分県日田市田島に鎮座する由緒ある神社である。
日田市内最大の神社で、通称「大原神社」と呼ばれ親しまれている。
871年 (貞観13年)、当時日田郡司であった日田大蔵氏の始祖、大蔵永弘 (おおくらながひろ) によって元宮のある地に社殿が建立された。
❑ 日田大蔵氏の始祖「大蔵永弘」は、遡ること48代前の河北家の祖先である。
▶〚 47代 大蔵永弘 | 95代 河北幸高 〛
··
··
··
私達、河北家の家紋は「鬼洲浜紋(おにすはまもん)」又「相撲取り紋」とも呼ばれ、力士が取り組みをしている姿を表しています。
この紋は平安時代、京の天覧相撲での永季の強さに大変感心された「後三条天皇」から賜ったものだそうです。
この大蔵家の洲浜紋(相撲取り紋)の家紋を、楠森堂の敷地内の色々な場所で見る事ができます。
【 主屋・玄関 |「鬼瓦・鬼洲浜紋」「巴瓦・洲浜紋」】⇧
【 裏門 |「洲浜紋」】⇧
【 新座敷 |「鬼瓦・鬼洲浜紋」「巴瓦・洲浜紋」】⇧
【 楠森堂 敷地内・山北神社|「洲浜紋」】⇧
——————————————————————————
✜ 楠森堂 Blog ✜
神武天皇の兄「三毛入野命」の末裔と伝わる河北家
⇩ ⇩ [tap] ⇩ ⇩
kusumoridou.com/blog/三毛入野命の末裔/楠森河北家
——————————————————————————
·
——————————————————————————
✜ 楠森堂 Blog ✜
鶴田真由さんが綴る「note」| 花と朗読 制作記
⇩ ⇩ [tap] ⇩ ⇩
kusumoridou.com/blog/花と朗読制作記/note
——————————————————————————
…
…
//////////////////////////////////////////////
[ ~YouTube~: 放送動画 ]
【◆前編◆】楠森 河北家「千二百年!先祖物語」⋄ドキュメンタリー番組⋄
/2016年 (平成28)
·
【◇後編◇】楠森 河北家「千二百年!先祖物語」⋄ドキュメンタリー番組⋄
/2016年 (平成28)
·
楠森河北家住宅の記録 │ Kusumori Kawakita Estate.
·
2016 象鼻杯の記録 < 会場 ·「楠森堂」新座敷 >
…
…
…
…
MUJI 無印良品
【 ローカルニッポン | 福岡・うきは 】
「 在来茶と地域に生きる 」― 楠森堂・河北幸高さん ―
(コチラから記事をご覧いただけます)
▼ ▼ ▼
【 https://localnippon.muji.com/7049/ 】