楠森堂ブログ

特別展「石橋美術館物語(7/2~8/28)」が開幕
特別展「石橋美術館物語 1956久留米からはじまる。」(7/2~8/28)が開幕。
石橋財団で〝最後〟の展示…
石橋美術館は1956年4月、ブリヂストン創業者の石橋正二郎氏が建設して市に寄贈。久留米文化振興会が運営していたが、77年からは石橋財団に変わった。久留米出身の洋画家、青木繁、坂本繁二郎らの作品については随一のコレクションを誇ります。
今回、久留米市の石橋美術館を運営する石橋財団が、同美術館の運営から2016年9月末で撤退することを受け、石橋美術館という名称では最後の展覧会となります。
財団撤退後は石橋美術館に収蔵する全美術品960点について、東京のブリヂストン美術館への移管が決定しています。
<第二次大戦後、石橋美術館が青木繁作品を多く集めることができたのは、河北倫明の全面的な協力があったからだといわれています…>
[美術評論家 ~ 河北 倫明(かわきた・みちあき) 1914~1995]
大正3年(1914)浮羽郡山春村(現・浮羽町)生まれ、旧中学明善校から第五高等学校、京都帝国大学を卒業後、文部省美術研究所に勤務、近代洋画の鬼才・青木繁を研究テーマに選び、日本美術史にその評価を定めることに力を尽くした。東京国立近代美術館次長、京都国立近代美術館長、横浜美術館長などを歴任、文化功労者としても表彰され、その活動は美術界に大きな功績を残した。
「天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はそのために天才を殺した。後代は又そのために天才の前に香を焚いている」
~河北 倫明~
近ごろの美術年間などをみると、青木の絵の値段は驚くばかりで、黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治らと同列の号二千万以上の高値が記してある。戦前、私が青木の評伝をまとめて調べていたころは、青木の名を知っているのは特別の関係者だけで、一般には全く無名であった。私が調査に訪れると、そんなにお好きならその絵をさしあげましょうか、どうせ家にあっても仕方がありませんから、といった調子であった。
いってみれば私などは無理解な同時代と、天才扱いの現代のちょうど中間にあって、この不遇の先輩のために一肌脱ぐようなつもりであったが、戦後、数人の同志とともに久留米郊外のケシケシ山に記念碑を作ったころから様子が一変した。いわゆる天才の前に香を焚く時代がやって来たのである。詩人はその詩をつくり、小説家はその伝記を脚色する。ガラクタのような片々たる遺作にまで大変な値がつき、ケシケシまんじゅうなども登場する。芥川式にいえば、千里の差が実は一歩にすぎないことを逆に再認識すべき時期といわなければならない。
【倉庫に埋もれていた「黄泉比良坂」の発見…】
青木繁の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を発見した時は、手が震える思いがしました。
その絵が東京美術学校にあることは分かっていたので、戦時中の昭和18年の夏を迎えるころ美術学校の文庫に入り込んで卒業生たちの作品の山の中を徹底的に調べたのです。
文庫内で探しているうちにワットマン紙に描いた「Aoki」のサイン入りの「花園に立つ女」見つけました。ひょっと裏を返すと、それが「黄泉比良坂」だったのです。「これか」とびっくりしました。
下辺部が無残に折れ曲がっていました。今でもこの作品には折れ線がクッキリと出ています。
青木の作品は、僕が調査していたころは、美校でさえゴミ束のように片隅に押し込まれる扱いだったのです…